晩夏のオホーツク紀行#8

網走監獄探索記(前編)

Date: 2021/8/29

北海道史を語る上で重要な場所

11:45
「博物館網走監獄」に到着。

駐車場に車を止めて博物館へと上がっていきます。博物館に入る直前にあるのが網走川にかかっていた「鏡橋」を再現した橋です。

鏡橋

鏡橋

網走刑務所は網走川の対岸にあるため、橋を渡らなくては出入りすることのできない場所にあります。その川に架かっていたのが「鏡橋」で、橋の名前は「流れる清流を鏡として、我が身を見つめ、自ら襟をただし目的の岸にわたるべし」との思いが込められているそうです。

橋を渡ってすぐの場所に受付カウンターがあるためこちらでチケットを購入します。感染症の影響で入場制限が行われているため、すぐに入られるかどうか不安でしたが、全く問題なく入ることが出来ました。

チケット売り場

それでは構内に入っていきましょう。

入口(二見ケ岡農場正門)

入って正面にあるのが「正門」です。

正門

網走刑務所正門

この重厚な赤レンガの門は網走刑務所の正門を復原したもの。この正門では「赤レンガ」自体が特徴的らしく、「窯の中に塩を入れ、塩が分解する1,160度以上の高温で焼き上げるため、独特の釉薬をかけたような黒褐色の色をしており、形も普通の煉瓦より20 – 30%小さい」ところが特徴的だそうです。 現在ではこのような焼き方はされていないため、赤レンガの歴史を語る貴重なものとなっています。

正門をくぐると現れる建物が「庁舎」です。こちらは国の重要文化財に指定された建物で、現在は囚人たちが切り開いた北海道開拓の歴史と重要文化財の見どころを紹介する展示があるため、網走監獄を見学するにあたり、必ず見ておきたい施設です。

庁舎

庁舎

この「庁舎」は網走刑務所の管理部門の中核を担う建物であり、典獄(今でいう刑務所長)室をはじめとして各管理部署が置かれていました。

建物の特徴としては、紋章入りの破風をのせた正面車寄せ、押し上げ式の窓、木造下見張りを設けた木造建築であり、明治初期に建てられた学校や官公庁によくある「擬洋風建築」となっているところです。なお、この建物自体は1909年(明治42年)に焼失した後、1912年(明治45年)に再建されたものを移築した建物だそうです。

館内には北海道内各地に設置された集治監や北海道開拓の歴史を学ぶことが出来ます。

館内の様子

庁舎を出て右に行くと「旧網走刑務所職員庁舎」です。1912年(明治45年)に建てられ、1983年(昭和58年)まで使われた職員の住まいを再現した施設となっています。

旧網走刑務所職員庁舎

庁舎内には当時の様子を再現しています。昭和末期まで使われていたそうですが、昭和末期にこの暮らしは厳しいのではないだろうかと思わざるを得ないのですが、館内の再現は明治期であり、その後は改修に改修を重ねて使われたそうなので、最終期には雰囲気は大きく変わっていたのかもしれません。

職員庁舎内

順路に従って現れるのが「網走刑務所裏門」です。こちらもかつての建造物を移築したもので、登録有形文化財となっています。

網走刑務所裏門

網走刑務所裏門

この門は「通用門」と言われ、刑務所をかこう赤レンガ塀を造り始めてから最初に着工した門。受刑者たちは、1919年(大正8年)の着工後、1924年(大正13年)まで5年かけて約1kmの赤レンガ塀を建設させられました。以来、1993年(平成5年)9月まで70年にわたって、受刑者たちが塀の外の作業場に出かけるときなどに通る裏門として機能しました。

裏門の隣にある門は「網走刑務所水門」の復元施設。網走刑務所の南側には網走川が流れており、この川を利用して、生活物資や肥料等を運んでいたそうです。ここでは往時をしのび、筏に肥溜めを載せ農場に運ぶ様子を再現しています。

網走刑務所水門

木彫りの像があったため一枚写真を撮ってみました。こちらは「ニポポ」という「北方民族の守り神」であり、網走市の民芸品として、受刑者が作成しているものだそうです。

ニポポ

続いては、「釧路地方裁判所網走支部法廷復原棟」です。

釧路地方裁判所網走支部法廷復原棟

この建物は、釧路地方裁判所網走支部及び網走簡易裁判所から、旧庁舎の取り壊しに際して、単独法廷、合議法廷、合議室、仮監置室及び勾留質問室、を譲り受けた施設。なお、建物の外観は、1900年(明治33年)から1952年(昭和27年)まで使われた旧網走区裁判所の外観を再現しています。

ここの法廷では冤罪事件である「梅田事件」の裁判も行われたことから、梅田事件についての記録も残されています。

梅田事件

1950年(昭和25年)および翌1951年(昭和26年)に発生した2件の強盗殺人事件についての冤罪事件。暴行・制裁・詰問の上に自白を強要させた後、1986年(昭和61年)に冤罪が確定した。

合議法廷

復原棟を出た後は「味噌醤油蔵」へ向かいます。網走刑務所は自給自足を目指しており、味噌や醤油も造られていました。

味噌醤油蔵

味噌醤油蔵から少し登ると「動く監獄」と呼ばれた「休泊所」です。

日帰りのできない作業に受刑者たちが従事する際、この仮小屋で寝泊まりをしていました。札幌と網走を結んだ中央道路の開削にあたってはこの休泊所を建てては移動を繰り返していました。

中央道路

道央圏とオホーツク・網走を結ぶために建設された道路のことで、旭川から網走まで全長217キロの道路。1891年(明治24年)5月から原始林に囚人たちは駆り出され、険しい自然条件とヒグマとの闘いともいえる、連日昼夜に及ぶ作業を経て、12月末までの約8か月で北見峠~網走間の163キロ区間を開通させました。

休泊所

所内の環境は我々には到底耐えられないような環境であったようです。

休泊所内の様子

隣にあるのは農機具や肥料・収穫物を入れる「耕耘庫」です。網走刑務所は、アメリカの近代的農業制度を取り入れた、最先端の農園刑務所でした。

耕耘庫

その隣には「つけもの庫」もあります。

つけもの庫

その次は、「監獄歴史館」に至ります。ここでは中央道路開削の様子などを再現しており、網走監獄における歴史や収監された人々の暮らしぶりなどを知ることが出来るようになっています。

監獄歴史館
次回予告
網走監獄探索記の後編です。

旅行記「晩夏のオホーツク紀行」