夢の帝国#3

エリーザベトの生涯(ウィーン王宮)

2024/9/20

王宮(Hofburg)

食後は今度こそのリベンジで王宮へと向かいます。この王宮は、ハプスブルク家が13世紀後半から1918年まで、600年以上の間、住居として使用した巨大な宮殿です。

写真一枚目のミヒャエル広場(Michaelerplatz)から入って、すぐ右手にあるチケット売り場で王宮への入場券を購入します。今回は、シェーンブルン宮殿の入場券とセットになったシシィチケットを40ユーロで購入しました。

ちなみに、このシシィチケットは購入日から1年間有効で、王宮、シェーンブルン宮殿、家具博物館の3か所に入ることができます。シェーンブルン宮殿では、時間指定なく入場できるため、かなり魅力的なチケットです。

通常は銀器コレクション(Silberkammer)の後にシシィ博物館(Sisi Museum)と見学できるようですが、銀器コレクションは長期休館中のため、フランツ2世像のある広場側からシシィ博物館に入場します。

シシィ博物館(Sisi Museum)

それでは、シシィ博物館の見学を始めていきます。贅を感じさせる階段を登ると展示が始まります。

なお、撮影禁止のようなアイコンがあるので撮影していなかったのですが、途中で「撮影している人たくさんいるやん?」とスタッフに聞くと、フラッシュ撮影が禁止の意のようです。

ここで、シシィについて簡単に説明します。シシィは、ハプスブルク帝国の皇帝・フランツヨーゼフ1世の妻エリーザベトの愛称です。エリーザベトは、南ドイツ・バイエルン王家傍系という貴族の下で生まれ、ミュンヘン郊外にあるポッセンホーフェン城で育ちました。王位継承権からは離れていたため、家族とともに自由な環境で育ちました。

その後、フランツヨーゼフ1世の妻となるわけで、華やかで豪華絢爛なハプスブルク帝国皇妃の展示ばかりかと思いきや、そうではありません。

「なぜ、シシィは死を夢見るようになったのか」

暗いテーマです。そのカギは、「シシィとフランツの出会いの物語」から始まります。自由奔放に育った幼少期のシシィがフランツと出会うまで、そして愛し合った2人の若い男女の物語です。

2人の出会いは出会いを創ったものの考えとは異なるものでした。

18歳で、若くしてオーストリア・ハプスブルク帝国の皇帝となったフランツヨーゼフの母は息子の妻、つまり皇妃となる女性を探していました。その候補にエリーザベトの姉・ヘレーネが上がっていたのですが、その折、フランツヨーゼフはエリーザベトに一目惚れをしてしまいます。愛し合った2人の若い男女、それは一瞬のものでした。

求婚され数日後には正式に婚約し、ウィーンでの生活が始まります。

ウィーン王宮での生活について、義母に厳しく指導される日々が続きます。とはいえ、結婚後の4年間に3人の皇位継承者を出産し、「美しさ」もまた磨きがかかり、世界的に有名な美女となりました。

二つの立派なドレスはレプリカのようですが、写真一枚目(左)は「ウィーンへ旅立つ前の送別会で着用したドレス」です。ただでさえ美しいドレスを絶世の美女がまとっていたら、さぞ美しいことでしょう。

満足な暮らしのようで、自由な環境で育ったエリーザベトにとって、ハプスブルク帝国のウィーン王宮での宮廷儀式は堅苦しかったようです。このため、療養という名目で旅行をし、ウィーン以外で過ごすことが多かったといいます。

なかでもハンガリーとハンガリー人を愛していました。これには、シシィにオーストリア皇后となる教育をしたハンガリー人貴族マジュラート伯爵の影響や、義母であるゾフィー大皇妃がハンガリー人(マジャル人)を嫌っていたことなど、いくつかの理由があるようです。

当時、オーストリア帝国の支配下にあったハンガリー王国について、シシィの夫である皇帝フランツヨーゼフはハンガリーの自治権を拡大し、二重君主体制「オーストリア=ハンガリー帝国」としました。これは、オーストリア側からすると、「ハプスブルク帝国の一部」というこれまでの形を維持しつつ、ハンガリー側からすると、自治権の拡大を図るという双方の妥協からなるもので、アウスグライヒと呼ばれています。

もちろん、アウスグライヒはオーストリア帝国の国内外における情勢の変化によるところも大きいものの、シシィは推進に尽力したとされています。

写真二枚目(右)は、「ハンガリー王妃としての戴冠式で着用したドレス」です。こちらはハンガリーの正装ということですが、なんと美しい。シシィにとってもきっと満足の場であったのではないでしょうか。

華麗なドレスの展示の後は漆黒の装飾品のみを身に着ける時代の展示です。シシィには4人の子供がいましたが、娘が3人で、息子は唯一ルドルフのみでした。

しかし、唯一の息子であるルドルフ(オーストリア皇太子)は、父であるフランツヨーゼフと異なり、自由主義的な思想を強く持っていたことから、政治的に対立しました。さらに、ベルギー王女の次女であった妻との関係も冷え切っているなか、娼婦や女優とも多くの関係を結び、妻との離婚を求めていたことも父に知られてしまいます。

父から激しく叱責を受けていたルドルフは、一番の愛人に心中を持ち掛けたこともあったようです。そういった日々のなか、愛人の一人とともにベッドの上で血まみれになって亡くなりました。

この悲劇的な死の後、エリーザベトは他人との接触を避け、黒い服のみを着るようになったそうです。装飾品も黒いもののみを身に着けるようになりました。それでも、夫・フランツヨーゼフはシシィを愛し、自由に過ごさせていたようです。

それから9年後、シシィにも死が訪れます。旅行先のジュネーブで、イタリア人の無政府主義者によって暗殺されたのです。ここで、シシィの生涯の展示が終わります。

続いて、皇帝とシシィが過ごした部屋を見学していきます。

謁見の間などを過ぎた先に、皇帝の執務室(写真一枚目(左))があります。執務室の壁には、皇帝が生涯愛した長い髪をほどいたシシィの肖像画がかけられています。仕事に追われる日々と、旅に出かけていることも多い妻。顔を合わせることが少ないながらも、皇帝はシシィを愛し続けたようです。

その隣には、皇帝の寝室(写真二枚目(右))があります。庶民からすればもちろん豪華な部屋ですが、皇帝の寝室と言われるとかなり簡素な生活ぶりがわかります。なによりベッドなどはもう少し大きくしてあげても良いじゃないかと思ってしまいます。

皇帝は毎日4時半には起床し、一日中仕事をしていたそう。よくやっていけるものと感心してしまいます。

続いて、客人を招く大ホール(写真一枚目(左))があります。壁、床、家具の色合いがいずれも赤で統一されていて、かなり優美な印象を受けます。

大ホールの先にはエリーザベトの過ごした居室・寝室があります。皇帝の部屋よりも豪華な雰囲気でしょうか。

エリーザベトの部屋のなかでも特徴的なのは化粧室兼運動室(写真一枚目(左))でしょう。この部屋は、絶世の美女であったエリーザベトは、自らの美貌・プロポーションを保つための部屋で、化粧台や日々の美容体操用の器具がおかれています。シシィは身長173cm、体重50kgで、産後もウエスト50cmを保っていました。

化粧室兼運動室の隣には王宮内で初めての浴室(写真二枚目(右))があります。シシィは、月に一度、卵黄とこんにゃくで髪を洗っていました。

ちなみに、シシィの居室には自らの両親や兄弟姉妹の肖像画が多数おかれています。自らの子や妻シシィの肖像画を置いたフランツとはかなり対照的です。

続いて、皇妃が来客と接した大サロン(写真一枚目(左))もあります。ここには彼女が憧れた異国の風景画が掲げられています。また、皇帝夫妻は時よりこの部屋で、朝食を共にしていました。

この先、ウィーン会議の際にロシア皇帝アレクサンドルが滞在した部屋が数室あります。これらの部屋はフランツヨーゼフ1世の後、最後のオーストリア皇帝となったカール1世が暮らしていました。

見学の最後は、ディナールーム(写真二枚目(右))です。皇帝一家の食事室で、10品ほどのコース料理を45分ほどかけて嗜んでいたそうです。

ディナールームの先にはお土産売り場があり、借りていたオーディオガイドも返却します。

なお、見学時間はおおむね1時間半ちょっとかけて見学しました。現在は休館中の銀器コレクションなども見学するのであれば、最低2時間は必要そうです。また、お土産を見たりする場合はさらに時間がかかりそうです。

それでは、もう少しウィーン市内を散策してから、ホテルに向かうことにしましょう。

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